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京都市北区(大谷大学のすぐ近く)に至成堂書店という学術洋書専門店がありました.「ありました」というのは完了形で,このお店が今年(2019年)の夏に閉店してしまいました(書店のサイトには「令和1年9月10日をもって閉店」とあります).それで,何か覚えていることを書こうかと思って回想してみたところ特に思い出らしいこともなかったので放置していたメモを年の瀬になってやっつけたのがこの記事です.

至成堂について

「洋古書は東京神田の神保町に勝るところは国内にないが,学術書(特に西洋系の人文書)の新刊となると京都の至成堂というところが有名らしい」という話は,たぶん学部生の頃にどこかしらで耳にして知っていて,京都に住んでいるからには訪れておくべきだろうと考えてはいましたが,実際に通うようになったのは大学院時代に入ってからでした.

今ではAmazonをはじめインターネットを通じて外国から書籍を取り寄せるのは容易になりましたが,それでも大量の洋書の現物を間近に眺められる経験は大きく,はじめて訪れたときにはプレイヤッド叢書(仏ガリマール社から出ている叢書)やレクラム文庫(岩波文庫のモデルとなったとも言われるドイツの文庫シリーズ)が1階の棚一面に並んでいて圧倒されたのをよく覚えています.自分の専攻分野は西洋古代文学でしたが,そのジャンルは1階から2階へ上がる壁面と二階の一部に配置されており,階段に片足をかけて変な姿勢になりながら品定めをするのが常でした.この分野はそもそも新刊を取り扱う書店自体がほとんどないものですから,オックスフォード古典叢書(Oxford Classical Texts),ロウブ叢書(Loeb Classical Library, ギリシア語・ラテン語と英語の対訳叢書),ビュデ叢書(Collection Budé, フランス語との対訳叢書),トイプナー叢書(Bibliotheca scriptorum Graecorum et Romanorum Teubneriana)に加え,Cambridge Greek and Latin ClassicsやAris and Phillips Classical Textsなどの註釈書が揃った光景は他では決して見ることのできないものだったのではないかと思います(余談ですが,大阪茶屋町に丸善ジュンク堂書店ができてすぐの頃,洋書コーナーにロウブ叢書が一棚配されていて,「随分頑張ったものだ」と感心した記憶がありますが,いつの間にか消えましたね).その他,1階の一部にはサンスクリット語の書籍,2階の残りのスペースにはFelix Meiner社の哲学叢書など,哲学関係の本が置かれていました.

※閉店間際に撮らせてもらった写真(

また書店のサイトには「新刊入荷情報」として「現代思想」「哲学」「政治社会思想」「エコロジー・環境思想・環境倫理」「宗教思想・宗教哲学」「心理学」「西洋古典・中世・ルネサンス研究」「ドイツ文学・語学」「フランス文学・語学」とジャンル分けされた形で書籍リストのpdfが閲覧でき,たまに訪れて更新されていればチェックしていました.専門書店が作るこうしたリストは,時々の分野の動向をつかむのにとても有用であったと思います.

とはいえ,扱うものが人文系学術洋書という重箱の隅を顕微鏡で拡大したような分野ですから,実店舗の方はほとんど開店休業的でした.営業時間内に訪れても半分シャッターが閉まっていて呼び鈴を鳴らして開けてもらうことも多く,長時間品定めをしていても自分の他に誰も客がいないということも珍しくなかったものです.おそらく主な取引はむしろ大学の研究室や図書館と行っていたらしく,構内で書店の車を見かけたり,研究室に見計らい(本の現物をまず届けて,入用のものがあれば注文・支払いを行う流れ)にお店の人が訪ねてきたりということがありました.当時すでに,直接訪れて本を買ったり,店頭にないものを註申して取り寄せてもらったりして私費の買物は幾度もやっていましたが,一点当たりの書籍が高価なのもあって,いずれ研究費が取れたら公費から書籍を注文したいものだとぼんやり考えていました.

閉店間際

しかし,この価格の高さと先に述べたネット書店の充実とが,一般書店の苦境をもたらしたのに劣らず学術書をめぐる状況にも影響したに違いなく,実際私も新刊・古書問わず自分なりの取り寄せ手段が確立するにつれて,訪れる頻度は下がりました(行くときは大抵府立植物園を散歩してから立ち寄る,という呑気なコースです).その後,2017年から運のよいことに2年間研究費を取れたので,必要な本のリストを作って公費払いで注文を出したのですが,書籍の取り寄せにかかる時間が異様に長く,研究費使用の年度期限ギリギリになって随分焦らされたのは記憶に新しく,今から思うとこのあたりは店じまいの前兆だったのかもしれません.

閉店間際は全店8割引きとかの箆棒なセールをやっていて,ハイエナのように本をあさりに来ている人々があり,私もその一人としてなんともばつの悪い気持ちで歯抜けになったさみしい本棚から必要な本を拾い集めていました(幸い(?)ラテン文学は全く人気のない分野のため,閉店直前でもかなりの本が残っていたのです).

おわりに

店頭に置いている本は英独仏書が主体ではあったものの,それ以外の国の書店とも取引はあり(書店リストはサイトに掲載されていました),オランダやイタリアの本でも注文すると届くというのは大きな利点でした(イタリアからは今はamazon.itibs.it, Libreria Universitariaがあるので便利ですが,最近でも,スウェーデンから本を取り寄せたいと思ってもクレジットカード払いを受け付けていなかったりすると「至成堂が使えたら」と思う経験をします).十分にお金を落としてこなかったのに「書店がなくなるのは残念だ」と言うのは無責任の誹りを免れませんが,それでもこうしたお店がなくなるのは惜しいですし,一つの時代が終わったような寂しさを感じずにはおれません.最後の見返しに鉛筆で価格が書かれた注釈書を繰りつつ往時を懐かしんで,ここで筆を擱くこととします.

P.S. 京都で洋学はもう無理かもしれないね.

2019/12/27


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