虚無な記事です.
柄になるブナの木
ウェルギリウス『農耕詩』第1巻には,農具についての説明のなかで犂の構造と各部位の話をするこんな箇所がある.
caeditur et tilia ante iugo leuis altaque fagus
stiuaque, quae currus a tergo torqueat imos,
et suspensa focis explorat robora fumus. (Verg. Georg. I 173-175)
またあらかじめ軽い菩提樹が軛のために,柄になる高いブナの木が
切り倒され――これは犂の底部を後ろから向け変えるためのもの――,
これらの木材は炉の上に吊るされ煙によって検められる.
菩提樹は軛に,ブナの木は柄に用いるわけで,《軛》iugoは「~のために」という与格として判るが,
対応する《柄》stiuaは主格で-queによって並列されているため直訳すると《ブナの木と柄》となり不釣合いに見える.
先行する菩提樹云々と対になるような言い方だと座りがよいのだが……
修正案を考えてみる
足りない脳を絞って考えついたのは,stiuaque quaeの代わりにstiuae quaeとすればスッキリ読めるのでは,ということだ.
queとquaeは似ているので,一種のdittography(もともとひとつしかない語を誤って二度書きして写してしまう現象)が発生したのではないかと想像してみるのである.
早速apparatus critici(校訂テクストの下部に写本の読みや学者の修正案,場合によっては校訂者の判断などが書かれているテクスト批判資料)を見てみよう.
すぐ手許にあったのはMynorsのOCT版とConteの新しいTeubner版だったが,いずれも写本の異読や学者の修正案などは報告していない.
意気揚々としてstiuae quae Niceratusと欄外に書き込みかけたが,さすがにもう少し他のテクストも見る必要があるので,ひとまずMynorsより前になるHirzelのOCT版を参照.すると,
174. stivae ] Martyn Schaper
とあるではないか.
残念ながらすでに同じことを考えて修正案を出した人がいたようだ……
先人たちの考え
さて気を取り直してこのMartynという人について調べてみると
- P. Virgilii Maronis Georgicorum libri quatuor. The Georgicks of Virgil, with an English Translation and Notes by John Martyn, London, 1755.
という文献のことらしく,さいわい
Google_Booksで閲覧できる(Schaperの方はおそらくこの
Vergils Gedichteのことで,たしかに本文はstivae, quaeとなっている).
Martynの註の部分を読んでみると,この箇所の文法的な構造は明白ではなく,stiva caediturのような表現はabsurdであるとしてstivaqueの代わりにstivaeと読むことを提案しているようだ.
なるほど,長く続いてきたウェルギリウス研究の中でこのくらいのことを誰も考えた例がないなどと思うのは浅はかにもほどがあることであるなぁと反省しつつ続きを読むと一番最後のところには
The Bodleian manuscript has stiva que currus.
と気になる記述を発見.学者の修正とは別に写本のレベルでも揺れがあるらしいという新しい知見を得ることができた.
もっと詳しいapparatusがほしい!
ウェルギリウスの作品について写本の読みを詳しく報告してくれている校訂本は何かなと考えて思いつくのは
- P. Vergilii Maronis Opera post Remigium Sabbadini et Aloisium Castiglioni recensuit Marius Geymonat, Augustae Taurinorum, 1973.
なので,それも見てみる.すると期待通りの詳しさで,
174 stivaque quae ] stivaquaeque A, stivaqueque P (corr. P2), stivaque b, stivae quae Martyn (sed que hic vim habet explicandi, ut Aen. 2, 722; 3. 148; 7, 94)
と書いてある.写本の読みが一様ではないことがわかった一方,Martynの修正案にも言及したうえで,この-queが説明のはたらき(vim explicandi)を持っている,として『アエネーイス』の類例を参照させている.
つまりGeymonatは-queをそのように解釈すれば修正の必要はないと判断しているのだ.早速指示された箇所を見てみよう.
説明の-que
Geymonatが参照させていたのは次の三箇所.
ueste super fuluique insternor pelle leonis. (Verg. Aen. II 722)
黄色い獅子皮の衣を自分の身に覆い被せて
effigies sacrae diuum Phrygiique penates, (III 148)
プリュギアの守護神の,聖なる神々の像
atque harum effultus tergo stratisque iacebat
uellibus; (VII 94sq.)
そしてこれら(=雌山羊)の背中の,敷き広げた毛皮に身を置き
横たわった.
いずれのケースも,-queでつながれたふたつの名詞は並列関係にあるというより,後のものが先のものを説明するような関係にあるように思われる.
そのため訳文にも説明的な《の》を用いてみた.
ものによっては《という》くらいまでしてもよいかもしれない.
語義区分がやたらと細かいOxford Latin Dictionaryを見てみると,-queの項の6番に
(epexegetic, adding a word, phr., or cl. which explains and enlarges on what precedes) To be precise, and.
と説明してあるので,このあたりに分類できそう.
説明の-que! そういうのもあるのか……
註釈書の説明も見てみる
これまで校訂テクストばかり見てきたけれども註釈書はどう考えているだろう.手近なThomasのものに眼を向けてみると,
alta fagus | stiuaque ‘and a tall beech for the handle’; not exactly a hendiadys, as Page notes, but rather stiuaque is explanatory of fagus.
と言っている.Pageというのは,
- P. Vergili Maronis Bucolica et Georgica with Introduction and Notes by T. E. Page, London, 1898.
のことで,たしかにこの問題の句は二語一想(hendiadys)
――等位接続詞で結ばれたふたつのものが単なる並列,列挙ではなくひとつの概念をなす事象
――としてよりもstivaqueがfagusを説明していると取る方がよいと述べている(
Internet_Archive).
両概念をキッチリ区別して分類できるのか少しためらいがないではないが,たとえば二語一想の場合,
hic laticis, qualem pateris libamus et auro, (Verg. Georg. II 192)
ここには,金の杯により捧げるための酒が……
fucoque et floribus oras | explent, (IV 39f.)
花からとれた蜜蝋で縁を満たし……
のように,後のものが先のものの素材ないし由来元を表しているケースは見つけられたけれども,たしかに今問題のケースとはちょっとしっくり来ない感じがある.
結局のところ……
いずれにせよ,このあたりまで調べたところで,stivaque quaeは変えずに読めるし変えずに読んだほうがよいという気持ちにすっかりなってしまった.
もしそれでもなお修正にこだわるとすれば,直前と対になる与格を用いた代替表現があるなかで敢えてそこを外した狙い,それによる効果がどれほどか(またそれが「ウェルギリウス的」かどうか)を論じるなどの余地が考えられるが,あまり見通しのよい道ではなさそうである.
2017/10/07
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