Philodemvs, Epigramma

XVII (=AP 11. 41)

ἑπτὰ τριηκόντεσσιν ἐπέρχονται λυκάβαντες,
   ἤδη μοι βιότου σχιζόμεναι σελίδες·
ἤδη καὶ λευκαί με κατασπείρουσιν ἔθειραι,
   Ξανθίππη, συνετῆς ἄγγελοι ἡλικίης,
αλλ᾿ ἔτι μοι ψαλμός τε λάλος κῶμοί τε μέλονται5
   καὶ πῦρ ἀπλήστῳ τύφεται ἐν κραδίῃ·
αὐτὴν ἀλλὰ τάχιστα κορωνίδα γράψατε, Μοῦσαι,
   ταύτην ἡμετέρης, δεσποτίδες, μανίης.

三十の歳月に七年が更に付け加わって
 いまや我が人生のコラムも折り返し.
すでに,クサンティッペーよ,分別ある年齢を告げる
 白髪が私を覆い包んでいる.
だのにまだ竪琴の調べやお喋りや浮かれ騒ぎが名残惜しい.5
 満たされぬ胸のうちに火が燻っている.
さあ,我が主なる詩女神ムーサたちよ,すぐにでも
 他ならぬ彼女を終止符として私の狂気に記してください.

COM. ―― この詩の解釈については大体においてGiangrande, G., ‘Erklärungen hellenistischer Stellen’, in Grazer Beiträge 1, 1973: 137-148のpp. 141-147にしたがった.Gow-Pageの解釈も以下の註の中に記してある. 2. 我が人生の柱:《柱》と訳したものの原語はσελίςで,パピルスの巻子本に文章を書いていき列を改めるまでのひとまとまり,所謂「コラム」である.もちろん冊子本の《頁》という場合もあるが(実際Gow-Pageは暦表や帳簿のように冊子本(codex)が破り取られていくように考えている),詩人の時代の書物としてはパピルスの巻子本を考えるべきであろう.「人生という書物」の比喩は新しいもので,ピロデーモスには他にも『死について』(Περὶ θανατοῦ, De morte, IV 39. 17f.)にσ[υ]γκυρή[σ]ειν τὴν τοῦ β[ί]ου παραγραφήという表現がある. またエピクーロスを扱った『ギリシア哲学者列伝』の10巻は書物全体の終わりとこの哲学者の生涯の終わりをなぞらえるような書き方をしていて興味深い.καὶ φέρε οὖν δὴ νῦν τὸν κολοφῶνα ... ἐπιθῶμεν τοῦ παντὸς συγγράμματος καὶ τοῦ βίου τοῦ φιλοσόφου (Diog. Laert. X 138). 折り返し:前註に記したように,冊子本を想定するGow-Pageはσχιζόμεναιを《破り去られた》とするが,むしろ巻子本に柱がいくつも連ねられていく様を念頭において《ふたつに分かたれた》と考える.つまり人生の前半と後半という二区分である.その方が37歳という詩人の年齢とも整合性が取れるように思われる. 8. 他ならぬ彼女を終止符として:クサンティッペーのこと.いまや終わりに差し掛かった人生の前半(青春)の終止符として,という意味.‘Xanthippam cupit ultimam suam curam esse.’ (Kaibel, G., Index scholarum in Universitate Litteraria Gryphiswaldensi, Griefswald, 1885: p. 14). 他方でGow-Pageはαὐτήν = τὴν αὐτήνと考えて《今すぐに私の狂気にもおなじ終止符を(=詩人がこの詩に終止符を打つのと同様ように)記してください》と解する.

2016/10/31


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