Petrarca, F., Canzoniere

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我が重苦しき生が頼りとする
糸はかくもか細く,
他の者の援けがなければ
この生は忽ちに彼岸へ駆け着いてしまうだろう.
実際,私が甘美な善の許から
5

為した無慈悲な離別の後,
ただひとつの望みだけが
今此処へまで私の生きている理由であったから.
その希望はこう語りかける.
「哀れな魂よ,たとえ愛しき者を
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見ることが叶わずとも生き存えるのだ.
より善き時へ,より喜ばしき日々へと
戻れるか,あるいは失われた
善を取り戻せるか否かがどうして判るのか」
この希望が暫しの間私の支えとなるが,
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今やそれは潰えんとし,私はそのうちに年老いていく.

時は過ぎ去り,刻はかくも速やかに
道程を遂げんとする,
自分が死へと向かって駆けていくことに
思いを巡らせるだけの時間さえないほどに.
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太陽の光線が東に姿を現すや,
反対側の地平の
山並みへと,斜めの長い
道程を経て達するのが見えるだろう.
死すべき人の生は
25

かくも短く,その肉体は
かくも鈍く脆弱なため,
私があのラウラの麗しき姿からこれほどに
隔たっていることに気がつくと
望みのままに翼を動かすことも出来ず
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普段の安らぎもほとんど失ってしまい,
このような有様で自分がどれほど生きられるかも判らなくなる.

あの美しく爽やかな眼を見ることの
出来ない場所はすべて私を悲しませる――
その眼こそは,神の意が許す間,
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我が恋の想いを開く鍵を携えた眼だ.
そして辛い放浪が私を一層苦しめようとも,
眠る時も歩む時も座す時も
彼女の眼以外のものは決して探しもとめず,
その眼を見た後では我が目に映る何物も意に適うことはなかった.
40

どれほどの山が,流れが
どれほどの海が,どれほどの河が
私からあの双眸を隠していることか――
我が生の暗闇を,さながら真昼間の
晴れわたる空のごとく変えてくれたあの双眸を.
45

それゆえ思い起こせば我が身は愈々窶れはて,
当時私の生がどれほど喜びに溢れていたかを
今の辛く悩ましい生が教えてくれるほどなのだ.

哀れ,語ることであの熱い望み――
私が自らの最良の部分を
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後に残し離れたあの日に
生まれた望み――が甦るなら,
また愛が長い時を経た忘却により消え去るのなら,
わが苦しみの育ち出でる
愛の火種へ私を誰が導いてくれるのか.
55

どうしていっそ黙って石になってしまわぬのだろうか.
まことに水晶や硝子も
内に宿した他のものの色合いを
顕わに示したことはない,
慰めを失ったこの魂が
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わが想いと胸の内なる
辛くも甘美な心持とを
この眼――常に涙することに焦がれ,昼も夜もその望みを
満たしてくれるものを探す眼――を通して明らかに示すほどには.

人の本性のうちにしばしば起こる
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不思議な喜びよ,
一際密なる嘆息の群れを生ぜしめる
奇しきことを何でも好む喜びよ.
私も涙することを喜ぶ人々のひとりなのだ.
されば心に苦しみの満ちるごとく
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眼には涙の溢れるように
心がけるのが相応しかろう.
あの美しき眼を語ることが
私を泣きたい気持ちにさせ,
その他には何も私の心に触れたり
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その内深くに感じ入らせたりするものはないため,
私は幾たびも駆け出てはまた元へ戻るのだ,
苦しみの一際豊かに溢れ出で,
愛の道の導き手となった両の眼が
心もろともに罰せられる源へと.
80


あの金の三つ編みは,進み行く太陽さえも
きっと嫉妬に満ちさせることだろう.
またあの晴れやかな美しき眼差しのうちにある
愛の輝きの熱さは
然るべき時より前に我が身を消し去らせるほどのもの.
85

そして聡明な,世にも
稀にして無二なる言葉――
かつて私に対し丁重に贈られた言葉――
これらものは今や私から奪われてしまった.かくして私は
他のどんな損害もこともなく許すのだ,
90

あの慈しみ深き天使の会釈が
私から奪われたことに比べれば――
その会釈こそはわが心を燃え上がる望みにより
美徳へと目覚めさせてくれるものだった.
嘆きに暮れる以外のことへ我が身を向かわせてくれる
95

そうしたものはもう決して耳にはできぬと私は思う.

そしてなお一層の喜びをもって涙するようにと,
白く繊細な手や
高貴な腕や,
爽やかで気高い所作,
100

気高くも慎ましい,甘美な蔑み,
若々しく麗しい胸――
高き知性の聳える塔――
これらを私から荒涼とした険しい土地が隠している.
私は自分が死ぬ前に
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彼女を見る望みがあるかもわからない.
なぜなら希望は時折
起こりはしても,留まることはできずに
潰えつつ,決して彼女を
見ることはないと告げるから.その内に
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誠実と高雅とが宿る彼女を天は称える.
そして其処が我が魂の住処となることが私の願い.

カンツォーネよ,もしあの甘美な場所で
お前が我が婦人に会ったなら,
私からはかくも遠く隔たった
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あの麗しき手が差し延ばされると
きっとお前は思うだろう.
しかし触れてはならぬ.むしろ恭しくその足元に身を屈め,
彼女に伝えてほしい,許されるならすぐにでも其処へ行くつもりだと――
裸の魂としてであれ,肉と骨のある人としてであれ.
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COM. ―― 3. 他の者:不特定に言われているか,あるいはラウラが示唆されている. 4. 彼岸:生の終わり,死. 5. 甘美な善:ラウラのこと. 23f. 斜めの長い道程:太陽の通り道としての黄道のこと. 35. 神の意が許す間:アエネーアースと別れたディードーの言葉に《運命と神の許した間は甘美であった形見の品》とある.‘dulces exuviae, dum fata deusque sinebat.’ (Verg. Aen. IV 651). 36. 我が恋の想いを開く鍵:閉ざされていた詩人の心を恋の想いへと開いた鍵. 44f. 我が生の暗闇を……空のごとく:Cf. ‘donec fiant tenebrae meae sicut meridies in vultu tuo’ (Augustinus, Conf. X v 7). 50. 自らの最良の部分:心のこと. 53. 甦るなら:原語はrinfresca. 《(熱い望みが冷えて)鎮まる》という意味に読めそうだが(Cf. Rvf. 50, 57),そのような意味はこの動詞には見出し辛い. 79. 愛の道の導き手となった両の眼:‘si nescis, oculi sunt in amore duces.’ (Prop. II xv 12). 102. 若々しく麗しい胸:そこに宿る心のこと. 113. あの甘美な場所:ラウラの居るところ.

2017/07/05


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