Petrarca, F., Canzoniere
30
私が
月桂樹の下に見た若き婦人は,
幾年もの間太陽を浴びたことのない
雪よりもなお白く冷たい人だった.
その話しぶり,麗しき顔,
髪が
私を魅了し,山でも
岸辺でも何処にあろうと
5
私はその姿を
眼前に見,また見続けることだろう.
我が想いがかの
岸へと辿りつくとき,それは
月桂樹のうちに緑の葉がもう見出されぬとき.
この心が安らぎを得るとき,この
眼の乾くときには
炎が凍てつき,
雪が燃えるのを見ることだろう.
10
この頭にある
髪も,その日を待ちわびるだけの
年月の数ほどには及ばないのだ.
だが時は翔け,
年月は逃げ去り,
人はまたたく間に死へと
至るものだから,
髪の色の黒いと白いとにかかわらず
15
私はせめてかの甘美なる
月桂樹の蔭を追おう,
太陽のひときわ燃えるときも,
雪のときも,
最後の日がこの
眼を閉ざすまで.
さながら太陽の
雪を溶かすごとく我が身を溶かす
かくも美しき
眼は,我らが時代にも
20
原初の
年にもいまだかつて見られたことはない.
其処から出でる涙に濡れた
岸,
それを愛神は導いて,ダイヤモンドの枝と
黄金の
髪持つ固い
月桂樹へと至らせる.
私は恐れる,生きた
月桂樹に彫り刻まれた
25
我が
偶像が,真の慈悲がこもった
眼を私に
見せるその前に,わが顔,わが
髪の変わり果ててしまうことを.
数え間違いでなければ,私がため息混じりに
岸から
岸へと夜も昼も,暑いときも
雪のときも
ゆき続けて今日で
7年となるのだから.
30
内には炎を,外には白き
雪をまとい
ただ想いのみは渝らず,
髪は変わり果て,
私は絶えず泣きながらあらゆる
岸を行くことだろう,
もしかすると
幾千年の後に生まれくる人の
眼に憐れみを生じさせられるかもしれない,
35
よく育まれた
月桂樹がそれほどの時を生き永らえうるならば.
雪の上,陽の光にさらされた
黄金と
黄玉にも
勝るのだ,彼女の
眼にかかる
金髪は.
そしてその
眼はわが
齢を忽ちにかの
岸へと連れて行く.
COM. ――セスティーナの脚韻語(lauro, neve, anni, chiome, occhi, riva)に相当する語句(訳文の都合上同じ語を複数回出した場合はその全て)を太字にしてある.
1. 月桂樹:音声上の類似(lauro : Laura)によってラウラを指す.
7. かの岸:すなわち思いの成就を意味する.
15. 髪の色の黒いと白いとにかかわらず:この行は続く主文章(……追おう)の方につなげて解釈して訳したが,底本などは先行する理由文に組み込むように解釈している.その場合,人の死は老いも若いも問わず不意に突然訪れるから,という意味になる.
30. 今日で7年となる:ペトラルカがラウラとであったのは1327年4月6日のこと.したがって此処で設定されているのは1334年(4月6日)となりるが,それをそのままこの詩の実際の制作年代とすることはできない.なおこの年ペトラルカは30歳で,このセスティーナが『カンツォニエーレ』の30番として配されているのは意図的なものだろう.
31. 外には白き雪をまとい:髪の白くなること.
33. 岸:riva. 必ずしも水辺に限らず,《土地,地域》まで広く意味を持ちうる.
36. よく育まれた月桂樹:ben cólto lauro. ひとつには《よく手入れして育てられた月桂樹》,そして同時に月桂樹=ラウラのイメージによって《(詩人に)敬愛されたラウラ》をも意味していると考えられる.詩人の詩を通して後世にラウラのことが伝えられたならば.
37. 黄金:l'auro. したがって《月桂樹》(lauro)と同音.
39. かの岸:終わり,死.
2017/01/26
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