Petrarca, F., Canzoniere

29


いまだかつていかなる婦人も緑や紅,
褐色や濃紺の衣を纏ったことはなく,
黄金の髪の毛を編み束ねたことはない,
私から意志を奪い,自由の道から
私を自分の方へと連れ去る
5

かの婦人がそうするほど美しくは.かくて私は
これより軽い軛には屈することができぬのだ.

苦しみのあまりあわや危険に晒されて
思慮を失った魂が時折
嘆きを上げようと身構えても,
10

不意に現れたかの婦人の姿は魂を
制御のきかぬ欲求から呼び戻す.なぜなら
かの婦人を眺めれば,わが心からはあらゆる狂気の
企てが消え,あらゆる憤りは甘美な思いに変わるから.

私が愛のためにすでに被った苦しみにも,
15

またわが心を苛み今なお望みを
駆り立てる,慈悲の敵なるかの婦人がわが心を
癒してくれるときまでに私が受ける限りの苦しみにも
報いはあるだろう,私の謙譲に対し
彼女の頑なさと怒りとが,私の通う麗しき路を
20

塞ぎ鎖してしまいさえしなければ.

だが,私を苦しめるこの生の最初の根となったのは,
愛神の占める場所から
私を追い出したあの白と黒との
双眸を眺めたその日,その時であり,
25

また我らの時代が賛嘆する
婦人――その人を見て畏敬を抱かぬものは
鉛か木の如きもの――なのであった.

かくして,あの矢――わが左胸で最初に
それに気づいたものが濡らしたあの矢――のゆえに
30

わが眼よりこぼれ落ちる涙も
私を望みから解放してはくれない――
然るべき側に判決は下るものだから.
その箇所のゆえにわが魂は嘆息し,また
その箇所が受けた傷を洗うのも相応しきこと.
35


我が想いは私自身と食違っている.
かつて今の私のように疲れ果て,
愛しき剣を己へ差向けた女があった.
それでも私は彼女に解放を願いはしない.
なぜならこれ以上に天へと至るまっすぐな道は他になく,
40

これ以上に頼もしい船に乗り,栄光の王国を
乞い求めることは出来ないのだから.

かの麗しき子がこの世に生まれ出でたとき,
その母の幸福なる胎に
伴となった慈しみ深き星々よ.
45

彼女は地上の星であり,その高貴さという
誉れを保っているのだ,さながら月桂樹の緑の葉のごとく――
そこでは雷も,その葉を脅かす
悪しき風も吹きはしない.

私はよく知っている,最もすぐれた著者でさえ
50

彼女の美点を詩行のうちに
込めようとすれば疲れ果ててしまうであろうことを.
どんな記憶の部屋があるだろうか,そのうちに
彼女の眼――それは全ての徳の徴であり,
わが心の甘美なる鍵――を眺める者が目にする限りの
55

徳と美とを受け入れられるようなものが.

太陽の巡る限りのところ,婦人よ,愛神は
貴女以上に貴い証を持たないのだ.

COM. ―― 6f. かくて……できぬのだ:ラウラ以外の女性の,より軽いであろう愛の軛に従うことを良しとしないで,彼女にこだわらざるを得ない. 20. 頑なさと怒り:Orgoglio et Ira. ラウラのつれない,冷たい態度. 麗しき路:il bel passo. 通い路とは詩人がラウラを見る眼のことと考える. 21. 鎖して:inchiave. clavisから考えるかclavusから考えるかで《鍵をかける》,《釘を打って閉ざす》のどちらにもとれる. 22. 愛神の占める場所:詩人の心. 23. 白と黒:白目と黒目. 29. かくして:眼を通してラウラを見たために苦しんでいる,ということを受けて. 29f. わが左胸で最初にそれに気づいたもの:心臓のこと.《濡らした》とは血によって. 33. 然るべき側:眼のこと.原因となった眼に罰が下る. 34. その箇所:前行の《然るべき側=眼》. 35. 傷を洗う:愛神の矢によって受けた傷を,眼が涙によって濯ぐ. 37f. かつて……女があった:カルターゴーの女王ディードーの話. 38. 愛しき剣:愛しいアエネーアースの剣でディードーは自害した. 39. 彼女に:ラウラのことと思われる.あるいは直前の《剣》を拾って考えることも出来るかもしれない. 40. まっすぐな:dritte. Cf. ‘ché la diritta via era smarrita’ (Dante, Inf. I 3). 43. かの麗しき子:ラウラ. 53. 記憶の部屋:心のこと.記憶と心の関係については‘nam et memoria mens est’ (Isid. Etym. XI i 13),また心を「部屋」とすることについては‘tum in illa grandi rixa interioris domus meae, quam foriter excitaveram cum anima mea in cubiculo nostro, corde meo, ...’ (Aug. Conf. VIII viii 19)を参照. 58. 証:pegno. Cf. Rvf. 340, 1. 保証・担保となる高価なもの.

2017/05/20


▲戻る