Anouilh, J., Humulus le muet


登場人物
公爵夫人
ブリニョック家のエクトール
ユミュリュス(少年,後に青年)
家庭教師
使用人(少なくとも三人)
エレーヌ

舞台装置
公爵夫人の客間.
一番重要なものは夫人の肱掛椅子.
次に両側をプラタナスに囲まれた小径.
そして公園.
しかし,どれも絶対に必要なものではない.



第一景


公爵夫人――物語にはありがちな人物――,両肩に紋章細工の施された大きな肘掛椅子に座っている.彼女の向かい側には,背の高い,痩せてよぼよぼした田舎貴族の叔父エクトールが立ち,左右の眼に単眼鏡を交互に掛け替えているが,まるで見えぬ様子.オルケストラが聞こえる.

公爵夫人
 
エクトール,もう御祝いが始まりましてよ.私,これを毎年とても楽しみにしておりますの.

エクトール
 
素晴らしいオルケストラですな.

夫人
ええ,そうでしょう.楽団員の給金もひどく高いんですのよ.彼らを相手に掛け合うのはひどく骨が折れましたわ,まるで商売人にでもなったみたいでした.

使用人たち,一列になって花束を携え登場.

夫人
まあ,貴方たち,気の利くことね,ありがとう,私感激いたしましたわ.けれども,ブリニョック家の者としては守らねばならぬ習わしがございます.貴方たちのお祝いを聞く前に家の子供たちのお祝いを聞かなくてはなりませんわ.少し待って頂戴.私の孫のユミュリュスももうじき来るでしょうから.エクトール,貴方,ユミュリュスのことを覚えていらして.

エク
いや,どうもはっきりとは.私が旅に発ったとき,たしかあの子は生まれて十八日でしたからな.

夫人
すっかり見違えましてよ.好い子で,ちょっとはにかみ屋さんですの.病気のことがなければ,立派な公爵になれるでしょうに.

エク
たしかあの子は可哀想に口が利けないのではありませんか.

夫人
利けなかったんですのよ,エクトール,もう昔のことです.本当に貴方はまだ帰っていらしたばかりなのね.貴方が旅に出ている間に神様が奇跡を起こして下さいましたの.

エク
神様はいつもブリニョック家の者をお護り下さいましたからな.

夫人
イギリス人のお医者様が,色々と手を尽して下さって,一日に一語ならあの子に喋らせることができるようになったんです.

エク
一語だけですか.

夫人
ええ,でもあの子はまだほんの子供ですから.大きくなるにつれてもっとたくさん話せるようになるに違いありませんわ.それにね,エクトール,ユミュリュスが一日話すのを我慢しますと翌日には二言話せるようになるんですのよ.

エク
では同い年の子供たちなら諳んじているようなお話も,ひとつくらいなら彼に暗誦させることができるのですな.

夫人
そのつもりですわ.けれども大層長い時間が要るでしょう.「名誉を措いて」というブリニョック家の標語を言うためには,ねえエクトール,あの子は三日間も口を利くのを我慢しなくてはならないの.だから毎年この地方でお祭りのあるときにはちょっとばかりこうした犠牲を払わなくてはなりません.でも,あの子の話すのを長いこと聞かないでいるなんて,私堪えられませんわ.ですから,ユミュリュスには頼んで毎日一言私に言わせますの.例えば,昨日の金曜日には,あの子は「鱈」と言ったんですよ.

家庭教師,登場.

夫人
あら,先生,うちの子の用意はもうよくて.

家庭教師
 
ええ,奥様,こちらにいらっしゃいます.この新年の折にユミュリュス様がどのようなお言葉をおっしゃられるべきか,私共も随分思案いたしました.たしかに若い人たち向けの美辞麗句は色々ございますが,そういう言葉は大層長過ぎるものでございますから.そこで,一番要領を得て,一番表現力に富み,それから敢えて言わせて頂きますと,一番手短な言葉を考えました.それは「幸福」,これでございます,奥様.

夫人
完璧ですわね,先生.

家庭教師,退場.ユミュリュスを押しながら再度戻ってくる.ユミュリュス,まだ半ズボンを穿いた年頃で,大きな花束を抱えて身動きが取れない.彼を見ようと使用人たちは身を乗り出し,彼らの囁き声が聞こえる.

夫人
(身振りを送ってユミュリュスを使用人の列の端で止めさせる)まあ可愛いユミュリュスや,ちょっと待って頂戴,貴方がお祝いを言う前に,まずお祖母ちゃんの方からこの新年のお祝いを言わなくてはね.可哀想にお母さんが死んでからというもの,ユミュリュス,貴方を愛しているのはこの私なのよ.貴方にはお祖母ちゃんがついています.だから言うことをよく聞いて頂戴.ブリニョック家の者らしく,立派で勇敢でなくてはなりませんよ.いろいろ大きな催しのあるときしか会えないからといって私のことを嫌ったりしないでね.貧乏な人々がいてとても忙しいの.さあ,お祖母ちゃんに接吻キスして頂戴.それから今日の言葉を聞かせてね.先生,音楽を止めて下さる,この子の言葉が聞こえませんから.

家庭教師,退場.音楽が止まる.家庭教師,再び戻ってくると自分の席に着き,控えめに拍手する.ユミュリュス,赤くなって眉を寄せ,ゆっくりと公爵夫人の方へ歩き始める.全員感じ入って微笑する.使用人の列の最後までたどり着き,あと少しというところで,花束を落としてしまう.彼の前にいた使用人がそれを拾い集めて彼に返す.すると沈黙の中,彼は真赤になって,常々教え込まれたお辞儀をしたものか暫し迷った末,

ユミュリュス
 
ありがとう.

オルケストラ,大音量を奏でる.全員呆然として顔を覆う.

教師
何てことでしょう,今ここで言葉を発してしまうとは.これでは,どうやって奥様に「幸福」と申し上げるんです.

夫人
ユミュリュス,貴方って人はそそっかしいのね.

公爵夫人,退場.叔父のエクトールと使用人全員も彼女に続く.ユミュリュスはひとり花束を持ったまま舞台の真中に残される.家庭教師は階段のところに倒れ込む.


第二景

同じ舞台.人物も第一景の開幕と同じ場所にいる.ただしかなり老け込んだ風.更に,使用人の列の端には給仕が一人.音楽.

夫人
まあ,貴方たち,気の利くことね,ありがとう,私感激いたしましたわ.けれども,ブリニョック家の者として守らねばならぬ習わしがございます.貴方たちのお祝いを聞く前に家の子供たちのお祝いを聞かなくてはなりませんわ.少し待って頂戴.私の孫のユミュリュスももうじき来るでしょう.エクトール,貴方はどうお考えかしら,あの子は何をしているのでしょう.

エク
鏡の前で話す言葉をおさらいしているのではないですか.

家庭教師,登場.

夫人
あら,先生.どうかしら.

教師
(憔悴した様子)奥様,ユミュリュス様が奥様にお祝いを申し上げたいそうで.『おめでとう』という言葉をおっしゃりたいそうです.

公爵夫人,おおらかに微笑.演奏が止まる.いまや青年になったユミュリュスが通される.家庭教師,咳払いする.ユミュリュスは黙ったまま.

夫人
さあ,お祝いを言って下さいな.

沈黙.一同顔を見合す.

 
慌てなくていいのよ,お祖母ちゃんというものはいつも優しいものでしょう.

沈黙.

 
どうしたというのかしら,先生.

教師
(口ごもる)私も大変驚いている次第です,奥様.

夫人
ユミュリュス,もしかして今日の分の言葉をもう話してしまったの.新年の式典でお祖母ちゃんのために取っておいてくれなきゃいけない言葉を.

エク
この子はネクタイを結ぶときにでもうっかり悪態をついちまったんじゃないか.

教師
男爵様,お言葉ですが,私の教え子に限ってそのようなことは,ユミュリュス様は悪態をついたりなさいません.

夫人
先生,あの子の言葉はそんな風に話されてよいものではなくてよ.今朝はずっとユミュリュスに気を付けていて下さいましたの.

教師
それはもう,奥様,お手洗いに立たれた以外,今朝はちっとも目を離しておりません.それに保証いたしますが……

ユミュリュス,彼を肘で突く.

夫人
あら,どうやら貴方たち二人で示し合わせているようね.何か隠しているのでしょう,先生.

教師
それがその,奥様,いずれはわかっていただけるものと信じますが,私はユミュリュス様のご意向に沿うのがよかろうと思ったまでのことで……

夫人
意向ですって,どんなものですの,説明して下さる,先生.

教師
それがもう,ほとんど命令のようなものでございまして,奥様.

夫人
どういう命令です.エクトール,先生のお話から何かわかりまして.

エク
どんな命令だろう,考えただけで頭が痛みますな.

夫人
先生,はっきりと仰って下さるかしら.

教師
ええ,ご説明しましょう,奥様,私も肩の荷が下りますし,ユミュリュス様のお望みも叶うことになりましょうから.ユミュリュス様は私にこの紙を読むようおおせつけられたのです.

教師,読み上げる.

 
「お祖母様,僕はとても好きな女の子ができました.その娘はエレーヌといいます…」

公爵夫人,恐ろしい叫びをあげて卒倒する.オルケストラ,爆発的な音響.右往左往の大混乱となり,一同慌てふためく.

夫人
(立ち上がりながら)エクトール,皆を外へやって頂戴.

エクトール,使用人たちを外へと押し出す.

夫人
先生,よからぬことを口走らないでいただけます,私,使用人の前で気を失ってしまいましたわ.こんな恥ずかしいこと決して忘れません,貴方のせいですよ.さあ,先を続けて下さいまし.

教師
では,真に失礼ながら,奥様…

夫人
失礼なことはもう御免でしてよ,さ,続けて.

教師
(再び読み始める)「僕はとても好きな女の子ができました.その娘はエレーヌといいます……」

夫人
そんなところは飛ばして,気を付けて下さい.

教師
「その娘はエレーヌといいます.僕はなるべく早く彼女に気持ちを打ち明けようと思っています.けれども悲しいことに僕には病気があって,一日に一語しか口にできません.そこで,今日から一ヶ月の間,話すのを我慢することにしました.僕と先生とで考えたのです……」ここのところは本当じゃございません,奥様.

公爵夫人,扇で続けるように指示する.

「…この告白には三十語あれば充分です.なので,親愛なるお祖母様,今年は「おめでとう」の一言を申し上げることができません.御免なさい」

夫人
もう結構ですわ,先生.こんな恩知らずなことをお考えだったなんて.それ以上聞きたくありませんし,今晩の催しには私は出席しませんでしてよ.ユミュリュス,貴方って仕方のない人ね.返事はどうしたの.

教師
口が利けないのはよくご存じでしょう,奥様.

夫人
お黙りなさい.

侯爵夫人,退場.

エク
いや参ったな,大した奴だよ,お前さん.それでこそ本当のブリニョック家の男だ.わしもお前の年頃にゃ,ヴォードヴィル座に恋人の一人もいたもんだ.

エクトール,退場.

教師
はあ,まったく損な役を押し付けられたものですよ,ユミュリュス様.貴方の気まぐれで私もおしまいだ.

家庭教師,退場.


第三景

幕が上がると,両脇をプラタナスに囲まれた小径.エレーヌが自転車に乗って現れる.ハンドルには小さな黒い箱がかかっている.彼女に続いて同じく自転車に乗ったユミュリュスが現れる.明らかに彼女を追いかけている.二人でぐるぐると往来し,やがてエレーヌが自転車から降りる.同様にユミュリュスも降りる.

エレーヌ
 
ごめんなさい,ここから浜まではどれほどあるのか教えていただけるかしら.

ユミュリュス,片手を胸に当て黙って頭を下げる.

エレ
あら,どうもありがとう,あまり遠くはないのね.お昼ごはんの前には行って来られそうだわ.

エレーヌ,再び自転車に乗り,ユミュリュスに微笑みかけて退場.ユミュリュスも自転車に乗って彼女に続く.遠くで鐘の音がする.


第四景

公園.家庭教師,登場.手には紙を一枚持ち,ユミュリュスの方へと歩み寄る.

教師
ユミュリュス様,できましたよ,一仕事でございました.まったく昨晩はこの文章を仕上げるのに一睡もしなかったのですから.けれども三十語で告白をするというのはまことに難しいものでして,あまり愛の言葉を盛り込めませんでしたが,どうかご容赦ください.前置詞や冠詞,接続詞などは確かに味気のうございますが,文章に筋を通すためにはどうしても必要なものなのです.では読ませていただきましょう.

家庭教師,読み上げる.

 
「お嬢様,先日より燃えるような恋の想いが僕の胸の奥底に生じました.僕の涙とため息は,つれない貴女の美しさを振り向かせられるでしょうか.たったひとつの貴女の仕草で僕の傷はすべて癒えるのです」これで三十語です.本当はこんなお遊びに手を貸すべきじゃなかったんですが,私だって恋をしたことがあります.こういうことをしていると,またあの懐かしい思い出がよみがえってくるのです.

家庭教師,(時計を取り出して)

 
さて,あの娘もじきに来るでしょう.どういたしますか,万一の時に耳打ちして差し上げるためここに残っておりましょうか,それともちょっと離れたところにおりましょうか.

ユミュリュス,少し合図をやって,家庭教師はそこから離れる.ひとり残されたユミュリュスは非常に興奮した仕草で文章を読み直す.エレーヌ,自転車に乗って登場.しばらくの間ユミュリュスの周りをぐるぐるとまわるが,彼は気づかない.結局エレーヌが自転車のベルを鳴らして,ユミュリュスは我に返る.彼は青くなって,最後に文章を読み返しながら彼女の方へと向かっていく.エレーヌは自転車から降り,向かってくるユミュリュスを微笑みながら眺めている.

ユミ
(思いがけぬほどの大声で)お嬢さん,自転車で貴女の後を追いかけていたのは僕なのです.道をお尋ねになったでしょう.実は海までは十粁(キロ)もあるのですよ.

蒼白になって話すのをやめる.はっとして意に反したように呟く.

 
つまり,ですね…

そこで声が詰まる.慌てた様子で指折り算え始める.

エレーヌ,相変わらず微笑みながら彼を眺めている.

ユミ
(もう三語しか残されていない)僕は貴女が好きです.

エレ
(相変わらず微笑んで)あらごめんなさい,私ちょっと耳が悪いんですの.何も聞こえませんでしたわ.

エレーヌ,ハンドルの黒い小箱から大きな補聴筒を取り出す.それを耳に当て,優しく,

 
もう一度言ってくださるかしら.

ユミュリュス,彼女を見つめる.幕が閉じるまで,オルケストラの大音量が彼の絶望を覆い隠す.

2017/03/24


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