Leopardi, G., Saggio sopra gli errori popolari degli antichi

訳すきっかけのひとつにローマ大学のD'Intino教授のお話(レオパルディの生涯や『雑録』翻訳にあたっての様々な工夫)をうかがう機会があったこともあります(詳細).そのときの感想とかは→


I.
著作の理念


 世界は錯誤に満ちており,人間の第一の関心は真実を認識することに向けられるのでなくてはならない.哲学者たちがその確立を務めとしてきた真理の大部分は,もし錯誤が存在しなければ無用のものとなってしまっただろうし,その真理の別の部分についてみれば,現実に存在し続けている多くの錯誤により依然として無用のものとされてしまっているのだ.こうした真理のうちには,錯誤にその居場所を乗っ取られ,克服しがたい障碍に直面しているものがどれほどあることか.いとも容易く学び得るはずなのに,それを見定めることを阻む錯誤のせいで認識することがこの上なく難しくなっているものがどれほどあることか.真理を教えるということは,錯誤の残骸の上にそれを打ち立てることに比べればはるかに容易い.付け加えることは,取り換えることよりはるかに容易いのだ.だが嘆かわしいことに,かくも短い命の人間は,その生の大部分を己が抱いた錯誤を払いのけるために用いねばならず,しかも真実を探求するために残される部分はそれより少ない.偏見を捨て去らねばならないことは誰しも認めるところであるが,それを認識できる者は数少なく,それから自由になれる者は極めてわずかで,悪を根本から絶とうと考える者はほとんど皆無である.
 世界を改善しようという企てを嘲笑するのは無理もないことだ.しかし明らかに世の中には改善されるべきものがあるし,あらゆる無法のうちでも教育に関するものは,信仰に関するものに次いで最も破滅的である.我々は子どもが持つ偏見について事も無げに語る.それを払拭する必要があること,それを捨てぬことには分別ある人間にはなれないということは人の知るところである.にもかかわらずそれらは避けることの出来ないものであると考えられる.だが,一体どうして少年は錯誤のうちで成長していかざるをえないのだろうか.ことさらにそれを大きくしようと配慮せぬかぎり,子どものもつ偏見は十分少なくなるであろうことは我々の認めうることである.一般的に言って自然は真理を隠しはしても錯誤を教え込みはしない.単純素朴な人間を作りはしても偏見に染まった者を作りはしない.悪しき教育は自然が為さないことを為すのである.それは少年のまだしっかりとしていない心を間違った考えで満たしてしまう.赤ん坊の揺り籠はあらゆる種類の偏見に取り包まれていて,子どもはこうした邪悪な伴侶とともに育っていく.成長すればそれらから身を守るため絶えず武装していなくてはならない.こうして真理の持つ力は弱められ,知力の浸透は阻まれ,人間精神の進歩は遅滞するのである.
 明らかなことだが,未熟さや不注意によって,あるいはことさらに彼をおびえさせたり抑え込んだりすることによって数多の笑うべき考えが吹き込まれなかったならば,子どもはそうした考えに至るきっかけを得ることがなかったであろう.教育の力は少年期の後でもなおその精神に影響を与え続ける.きわめて厳しい気候の地に住む野蛮人が自分たちのほら穴に非常な愛着をもち,自分たちの土地の寒冷とヨーロッパの温暖とを取りかえるよう強いられると絶望に陥ることは我らも知ってのとおりでないか? 同様に,偏見の中で育てられた人間はこの青春期以来の古い伴と離れるのに苦痛を感じ,自分が常日頃疑いようのないものと見なしていたものがいかに非現実的なことかを省みる術を知らない.大部分の人間は幸せにも錯誤の腕に抱かれて成長し,産着に包まれている間に愛していた偶像に喜んで奉仕する.しかし偏見以上に人間精神に害をなすものはないのである.何かを人が言うのを聞いたために,そしてそれを検討する注意を持たなかったために信じるという行為は人間の知性を歪んだものにする.そのような盲目さは,理性の支配者に追従する者,アリストテレースの言葉にかけて誓う者が知者と見なされた時代に属するものなのである.
 大衆,すなわち人類の最大部分は,もっぱら錯誤におぼれる傾向があり,その迷妄から覚めがたいものである.その理解力の乏しさゆえに彼らは自分たちのうちに入り込んだ物事の誤りを把握したり,それを示してくれる証明の価値を見定めたりすることが出来ない.昔からの慣習に固執する上,昔からの考えにもしがみつく.生まれながらに奴隷であり,同時に自らの選択によってもそうなのだ.それとは別の社会階層に属する人々もまた大衆の錯誤に与っているが,それでもこうした錯誤は民衆のものと呼ばれる.なぜならそれらは民衆の間においてこそ顕著に支配を行うからだ.したがって民衆の錯誤の歴史は偏見の歴史に等しいものとなる.
 この理性の敵をせめてその一部でも打ち壊すためには,それらを認識せしめねばならず,それらを認識せしめるには,その細部にまで立ち入らなければならない.それだから民衆の錯誤の歴史というのは――現にそういうものを企てた者も居るが――たいへん有益になりうるものである.たとえ有益で啓蒙的な著作が公刊されたあとでも世界は依然として変わらぬままであり,世に遍在する無法は改善の対象とならぬとしても,それでも多少弱くはあるが理解力を備えていて考えを改めることのできる精神の持ち主はそれなりに居て,彼らは迷妄を晴らそうと苦心する者の心遣いを役立てることができる.ここで著者が書こうとしたのは古代人に共通の錯誤についての試論でしかない.そうした錯誤の完全な歴史はおそらくあり得ないだろうし,それを手にするのはきっと不可能だろう.古代の賢人たちの限りない錯誤は普遍的なものではなく,せいぜいある民族における限りのものであるから,偏見の数のうちには入り得ない.それにこの敬うべき知の先達たちの威光が求めるのは彼らの体系が論文の中で反駁されることであって,歴史の中で嘲笑されることではない.また彼らの間違いを枚挙するのはそう容易に行えることではない.というのも彼らのうちのほとんど一人ひとりがめいめいに固有の錯誤を有していて,その一方大衆の偏見は民衆全体に共通のものであり,賢人のうちには民衆全体よりも多くの錯誤を有した者もあったからだ.いつの日にも起こることだが,学者は非常にしばしば大衆の偏見に参与する,あるいは彼らに新しい錯誤を教え込んで偏見の数を増やすものであり,そのような観点からすれば彼らを残余の民衆と別にして考えるべきものではないのである.
 すでに述べたようにこのささやかな著作は古代人に共通の錯誤についての試論に過ぎず,古代における偏見の完全な比較検討を私に期待してはならない.そのような広大な企てはそう容易には実現しえぬものだろう.私の意図は古代人に共通の誤った観念の一枚絵を示すこと,至高の存在(神)や地上の事物,自然科学に関する彼らに共通の錯誤のいくらかを出来るだけ正確に描き出すことだった.この企てを遂行するために,私は題材を詩人に限定すべきと判断した.彼らが哲学者の見解に範をとって著述しているとき,あるいは特定の考えに従っているとき,それを判別するのは容易だ.彼らは,より一般的に理解される言葉,すなわち民衆のそれを語るのが常であり,そのため彼らは大衆の考えの通訳者だと見なすことができる.そして何らかの錯誤が古代人に共通のものであったと言った場合,私は彼らを自分の主張の正しさの証人として引き合いに出せると考えたわけである.
 かつて人々は古代人に由来するものを全て崇め奉っていた.今では彼らに属するものを全て区別もなしに蔑ろにしている.ふたつの偏見のうち一方が他方に劣っているなどということはない.この試論のなかでは,古代人が極めて拙劣な錯誤からさえ免れてはいなかったことが明らかになるであろう.しかしまた次のことも容易く理解されるだろう,すなわち現代の大衆もほとんどいかなる点においても彼らに引けを取らないということが.それどころかある時代を支配した偏見の少なからぬものが今日においても隆盛を極めているのである.このような反省を経れば,古代に対する崇敬も軽蔑も同じように程度をわきまえたものとなり,賢明な人の心のうちでは諸々の時代が近づき合い,人間が常に同じ要素から成り立つものであったことが理解されるのである.

2017/09/22

2017/05/12