Petrarca, F., Canzoniere
66
重苦しい大気,そして猛り狂う
風に
包まれ押し集められた鬱陶しい
霧は,
ほどなく
雨へと変わるに相違ない.
今やすでに
川はさながら水晶の如く,
谷間に見えるのは若草ではなく
5
ただ霜と
氷ばかり.
そして私は,
氷よりもはるかに冷たく凍える
胸の内に,重い想念の
霧を持つ.
それはちょうど,恋の
風に対して閉ざされて
淀んだ
流れに囲まれたこの
谷から,
10
天より降る
雨の次第に穏やかとなるときに
しばしば立ち込めてくる
霧のよう.
どんな激しい
雨もわずかの間に過ぎ
陽のあたたかさは雪も
氷も消し去って,
その水で
川は誇らしげに嵩を増す.
15
また荒れ狂う
風に襲われてもなお
丘や
谷から逃げてゆかぬほどに
濃い
霧が天を覆い隠したためしもない.
だが,悲しいかな,私には
谷間の花咲く春も甲斐なく,
晴れのときも
雨のときも,凍える
風にも
20
心地よい
風にも涙するばかり.
というのは,いつか我が婦人が内に
氷を持たず
外にもいつもの
霧を纏わぬ日が来るならば,
それは私が,大海や湖,
河の涸くのを見るときだろうから.
河が海へと流れ込み
25
獣が陰なす
谷を好むかぎり,
彼女の美しい眼には,わが眼から
涙の
雨を生ぜしめる
霧があり,
またその美しい胸には,わが胸から
嘆きの
風を起こす堅い
氷があることだろう.
30
けれども私はどんな
風にも堪えねばならない,
ふたつの
河の間,美しき緑と甘美な
氷に
私を閉じ込めた唯ひとつの
風への愛ゆえに.
そして私は数多の
谷間を行きつつも
思い描くのは己が宿った月桂樹の陰
――そこでは暑さも,
35
雨も,
雲破る雷鳴も,私は恐れることがなかったから.
だが,
風にあおられた
霧も,
雨に溢れる
河も,
陽光が
谷間を開くときの
氷さえも,
あの日ほどに早々と逃げ去ったことはなかった.
COM. ―― セスティーナという詩形に則り, 6つのpalora rimaを規則的に並べ替えた6つのスタンツァとcongedoから成る.脚韻語(nebbia, venti, fiumi, pioggia, ghiaccio, valli)に相当する語句(訳文の都合上同じ語を二回出した場合はその両方)を太字にしてある.
4. 水晶の如く:凍っている意.
6. 霜:pruina. イタリア語としてはbrinaの方が普通.
22-4. というのは……だろうから:adynaton. 貴婦人の心の氷が溶けることのありえなさを,川や海の干上がるありえなさを持ち出して強調する.
30. 嘆きの風:dolorosi venti. ため息.
32. ふたつの河:ローヌ川とデュランス河.
33. ただひとつの風:ラウラ.Laura : l’auraの音の同一性による.
35. 月桂樹:これもまたラウラ(Laura)と月桂樹(lauro)の音を用いた表現.
38. 陽光が谷間を開く:'l sole apre le valli. aprire《開く》とaprile《4月》とを結びつける民間語源はラテン作家以来のもの.Cf. Verg. Georg. 1. 217f.; Isid. Etym. 5. 33. 7. またこの箇所は韻律的には'l sóle-apré le válliと単語本来のアクセントと微妙にずれが生ずるが,むしろそれによりapré leがaprileを示唆する効果をもつと考えることができる.
39. あの日:ラウラが詩人を「ふたつの河」に閉じ込めた日.
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